本のあらすじ
この本は1976年『風と木の詩』、1977年『地球へ…』をヒットさせたマンガ家竹宮惠子先生の自伝です。マンガではなく活字のみの本です。
竹宮先生は20歳で徳島から単身上京。同業の仲間たちと交遊しながら作品を発表し、あるとき『風と木の詩』のアイデアを得、編集者の反対に合いつつも何とか別の連載で人気を取って掲載にこぎ着けるまでの苦労話を中心に描いています。
この本を読んだキッカケ
これまで私は竹宮先生のマンガには全く触れてこなかったのですが、あまりにも有名な主人公ジルベールと『風と木の詩』の名前だけは知っていて「少女マンガの歴史を変えた問題作」という認識があり、興味を持って読んでみました。
よしながふみ先生の『きのう何食べた?』で、ジルベールとあだ名された男性。
この人のニックネームは、明らかによしなが先生が『風と木の詩』をリスペクトして名づけたものと思います。
少女マンガ界にも「トキワ荘」があった!
私がこの本を読んで驚いたのが、竹宮先生が20歳からの2年間、通称「大泉サロン」と呼ばれるアパートで萩尾望都先生と同居していたという事実です。
そんなトキワ荘みたいなことが少女マンガ界にもあったとは……。全く知りませんでした。
元々は増山法恵さんという都内在住の萩尾先生のファンがいて、萩尾先生の紹介でその方と竹宮先生が親しくなるうちに「向かいのアパートが空いたから、こちらへ越していらっしゃいよ」と誘われ、地方出身の竹宮先生、萩尾先生が2人でルームシェアすることになったそうです。
インターネットのない時代、マンガ家や読者が顔をつきあわせてマンガの感想や新作のアイデアを自由にディスカッションできる「サロン」の存在は、大きな魅力だったのでしょう。
それで大泉のサロンは仲間のマンガ家が集う場所となり、一時はささやななえこ先生も居候していたそうです。
山岸凉子先生も、サロンに出入りしていた!?
そう言えば、山岸凉子先生のエッセイマンガにもサロンが登場していました。
場所や人物について名言はされていないものの、コタツを囲む面々はまさに大泉の人々。
山岸凉子著『ゆうれい談』(2002年、メディアファクトリー版)
手前に大きく描かれている少年の姿が、ケイコタン=竹宮先生と思われます。
額にホクロがある女性が萩尾先生。
そのお隣りに座るメガネをかけた女性は後のコマでささやななえこ先生とわかります。
後ろを向いているバレッタの女性が山岸先生。
消去法で、立ち姿で描かれているのが増山さんでしょう。
別のページにも、このような絵が。
同じく、山岸凉子著『ゆうれい談』より
増山さんと思われる女性がヨーロッパのガイドブックを開いています。
霊体験をした山岸先生と同室になるのを敬遠して、サロンのメンバーが「くじ引きで決めよう」と示し合わせるギャグシーンです。
竹宮先生の本では全く写真などの人物紹介がないので、山岸先生のこのコマから当時の人物像を想像して読んでみました。
気になるヨーロッパ旅行記
『少年の名はジルベール』では、大泉の面々と山岸凉子先生を合わせた4人で1972年9月から45日間ものヨーロッパ旅行に出かけたエピソードが紹介されています。
そのときの旅行記は『こんにちはさようなら』と題して短期連載されたとのこと。ぜひ読んでみたいのですが、単行本には載っていないようです。
山岸凉子先生のファンサイトに、雑誌掲載情報がありました。
こんにちは←→さようなら 1〜5
『週刊少女コミック』1973年
1号,2号,3・4号,6号,7号に掲載
同ウェブサイトの情報によれば竹宮先生、萩尾先生が交代で2ページずつ、5か月に渡って連載されたようです。
山岸先生は当時『りぼん』専属のため『週刊少女コミック』での執筆はありません。
今でこそ学生の海外旅行も当たり前ですが、1972年当時、20歳そこそこの女性たちが自分の稼ぎで旅費を工面して45日間ものヨーロッパ旅行に出かけたというのはすごいエピソードだと思います。
スランプに苦しんだ時代
旅行から帰った竹宮先生は、着々と成功する萩尾先生を横目にスランプに苦しみ、大泉サロンでの同居生活を解消したと『契約更新』の章に書いています。
1974年からは編集長が反対する『風と木の詩』の連載を通すため、ヒットを狙っての作品作りに挑みます。
増山さんの応援や編集者の協力もあって『ファラオの墓』は人気を博し、竹宮先生は1976年『ミスターの小鳥』という作品でスランプを脱し作者として「物語を隅々まで演出し、コントロールできた」という自信を持ったそうです。
「演出」を理解していないマンガ家は苦労する
最終章では、竹宮先生が2014年より学長を務める京都精華大学で学生に話している内容が紹介されています。
私が『脚本概論』を教えるのはなぜか? それは私も脚本というものをきちんと勉強せずにマンガを描いてきて、苦労をしたからです。(中略)
言いたいことははっきりしている。いいエピソードもある。でもマンガとしては面白くないし、盛り上がらない。つまり演出というものがよくわかっていなかった。これはやはり先人に学ぶべきものだと思う。
『少年の名はジルベール』より
これを読んで、マンガを描くには単に絵が描けるとかコマ割りのテクニックだけではなくて「シッカリとした脚本が作れるか」「ストーリーを盛り上げるために効果的な演出をできるか」も重要なんだと初めて理解しました。
少女時代に「私もマンガを描いてみたい」と試みて挫折した理由がよくわかりました…。
描きたいシーンやキャラクターを織り込みながらおもしろい話をつくるためには「演出」を工夫しないとおもしろくない。それが「脚本」なんだ…!
マンガだけでなく創作すべてに通じそうです。それを大学で教えてくれるなんて…スゴイ!!
大学で勉強したことだけでマンガが描けるわけではないでしょうが、それにしても先人の知恵を体系的に学べたら、若いアーティストにとっては大きなアドバンテージになりそうです。こういうところから、将来有名な作家なり編集者なりが出てくるのかも…!?
何気なく手に取った竹宮先生の自伝でしたが、大変おもしろかったです。
〜追記〜
その後、大泉での2年間を萩尾望都先生の視点で回想した『一度きりの大泉の話』を読んだ。
すると『少年の名はジルベール』を読んだときに抱いた、少しの違和感。
「ひょっとして、お二人の間にはなんらかのアクシデントがあり、今は絶縁されているのではないか。そのために本来こうした回想録に添えられるべき、当時の仲間たちの写真や、仲良くしていたはずの萩尾先生からのコメントがないのでは……?」という疑念を残念ながら裏付ける結果となった。
竹宮先生の本は、自ら萩尾先生にあてて書いた絶縁状のくだりがばっさり切りとられ、過去の美しいエピソードだけがツギハギされてできている。
これに比べると萩尾望都先生が述べる事実は冷徹だ。非常に公平な筆致で、竹宮先生への尊敬を欠くことなく、時間をかけて関係者の証言を集め、慎重に作られた本だとわかる。
『少年の名はジルベール』を読んだすべての読者は、あわせて『一度きりの大泉の話』を読むべきだ。すると、萩尾先生が《大泉サロン》という呼び方やサロンのメンバーとしてひとくくりにされるのを望んでおらず、大泉であったことは過去のこととして葬りたいと願っておられることを知るだろう。
私は萩尾先生の意思を尊重し、先生が過去の出来事にわずらわされることなく、静かに創作を続けられることを心より願っている。
2021年4月22日追記