10年もある男性に片思いしていた顛末を何回かに分けてブログに書いた。我ながらアホだなーと思うのだが、実はもっと長く片思いしていた経験がある。
そうね、ざっと20年ほど……。
実家の母のことである。
子どもは親に100パーセントの愛情を求めるものだ。だけど、親だってただの不完全な人間であり、子どもがこういうふうに愛して欲しいと思うような愛を注いでくれるとは限らない。
思い通りにならないからと言って相手を責めるのは、身勝手で幼稚な態度だ。大人になってまでやることじゃない。成人してしばらく経ったのち、そう考えるようになった。
当の母自身も「親から思うように愛されなかった」不満をもったまま大人になった一人だ。何十年も前のことを未だに深く恨んでいて、怒りの言葉を口にすることがある。「ああそうですか」と私は聞き流す。
この人は親から与えてもらえなかった愛を、娘の私から与えて欲しいんだろうな~と態度の端々に感じる。
だけど、そんなのは無理な話だ。だれも「こうして欲しい」と思うようになんて愛してはくれない。
愛とはただそこに存在するもの。
求められたからって多く与えられるものではない。
もし完全無欠の愛を求めるなら、信仰を持つべきだ。神に愛し愛される人生は幸せに違いない。
私は信仰を持たないから、自分なりの哲学を以って人を愛していくしかない。自分が持てるだけの愛情を他者に注ぐし、できないことはできないとハッキリ言う。
「私が思うように愛して欲しい」というのは愛ではなく、エゴだ。思いやりを持ってある地点まで応えはするが、それはこちらの愛情があったればこそ。エゴから湧き出る要求はいつまでも尽きることがなく、双方に疲れと虚しさとがつきまとう。
私は「この人を100パーセント満たしてあげることはできない」ととうの昔にあきらめ、母とは適度な距離を置いて接している。離れれば離れるほど、心地よい関係になれる……。
親から思うように愛されなかったとして、その代償を他者に求めるのは不毛な行為だ。
だれもそんなエゴに100パーセント応えられる者はいない。肉親も、恋人や、友だちも。
私たちは不完全な人間同士として、不器用に愛し合うことしかできないのだ。
今の関係に不満があるなら、去ればいい。
別の場所には別の形の愛がある。しかし、自らの理想に他人を当てはめようとすることの不毛に気づかない限り、何も変わらないだろう。他人を自己愛の道具にしてはいけない。
まず健全な自己愛を育てること。しかるのちに他人を愛すること。見返りを求めずにただ愛するのは難しい。それでも、チャレンジするしかない。人はパンのみにて生きるものではないのだ。