祖父が亡くなって2か月が過ぎた。連れ合いの祖母は認知症を患っており、もう自宅へ戻ることはない。
母と共に残された家を訪れ、2泊3日で遺品整理を手伝うことにした。
名古屋はゴミの分別がやかましい。分別に迷うもの、捨てていいのか判断できないものは後回しにして、だれが見ても不要品とわかるものを選別しどんどん袋に詰めていった。
この家ではなにもかもが祖父母の手で仕分けされ、丁寧に保管されている。スーパーのビニール袋、古びたタオル、賞味期限が切れた調味料や保存食品。サプリメントの空き箱など同じ種類の物が山ほどあった。
食べ終わったプリンカップの山なんて、一体何に使うつもりだったんだろう?
ヘルシーリセッタなどの料理用油も未開封のものがあちこちから出てきた。やかんは大小取り合わせて3つ4つ。炊飯釜や鍋も数えきれないほどある。
以前、森博嗣先生の『相田家のグッドバイ Running in the Blood (幻冬舎文庫)』を読んで驚いたが、祖父母の家がまさにあの小説の通りだったことに二度驚いた。用途のない空き容器の類いがとにかく大量に取ってあるのだ。
道具類がいくつもある理由としては、徐々に重いものが持てなくなって小さいサイズに買い替えたとか、消耗品は買ったことを忘れて何度も買ってしまったものもあるのだろう。
ダイニングには容器の蓋を開けるための道具をいくつも集めた引き出しがあった。これは祖父が用途別に使い分けていたのだと思う。手首の力も随分衰えていたに違いない。
夫婦がこの家に暮らした最期の日々の痕跡がそこらじゅうに残っており、切なかった。
遺品整理ではまだ使えるものもそうでないものもほとんど全てを捨てることになる。愛する人の持ち物を一つ一つ検分し、ゴミ袋行きにするたびに心に少しずつダメージを負った。
母や叔母は血が近い分、余計に疲れただろう。私もズーンと心が重かった。
葬儀のときにも思ったが、こんなさびしい作業を叔母1人にやらせてはいけない。
ほんの一部でも母と共にお手伝いできて良かった。女3人、ワイワイ会話しながら作業すると気が紛れた。
「こんまり」にならってまず衣類から始め、次にキッチン用品や消耗品、納戸や物入れの中身へと進んで行った。
初日にまとめた4袋は翌朝ゴミ出しし、その後まとめた11袋は次の収集日まで間があるので1階に下ろしておいた。エレベーターがあって、ほんとうに、良かったーーー!
遺品整理ではいくつもゴミを出すことになる。運ぶ人が腰を痛めないよう、ほどほどの重量に詰め合わせるのが肝心だ。
祖父の形見として私は真新しい財布と、シチズンの時計、夏のシャツ2枚、文房具、スーツケースと旅行カバンをいただいた。
同じ場所にあったクリスチャン・ディオールの旅行カバンを何気なく開いたら、祖母の氏名が黒々とマジックで書かれているのには笑った!! 旅行カバンには必ず氏名を明記する習慣だったみたい。
祖母からは新品同然のミシンや、若い頃に着ていた洋服、スカーフ、アクセサリー少々をいただいた。
2人から受け継いだ品々は、私の子どもの頃の幸せな記憶と連続している。
暗黒の子ども時代。冬休みになると2週間名古屋に滞在し、祖父母から惜しみない愛を受ける時間があったことは幸いだった。当時の私にとって、名古屋だけが「無条件の愛」を享受できる場所だった。
私が小学校を卒業する頃に祖父母も年老いて接待するのがつらくなったと聞き、行かなくなった。最後の年、自分の家に帰るのがつらくてずっと名古屋にいたくて……口には出さなかったが、新幹線の車内で胸が張り裂けそうになったのを思い出す。
社会人になってからはビジネスホテルに宿泊し、何度か祖父母の家に遊びに行った。その頃には古い家はとうに建て替えられ、3階建ての豪華な住宅に生まれ変わっていた。
遊びに行った立場で家中じろじろ見るようなことはしなかったが……今になって祖父母の家に泊まると、随所に生活上の工夫があることに気がつく。
- 広い敷地に前庭を広くとって3階建てにしたのは「ごはんを食べているとき、他人に見下ろされたくないから」
- キッチン、ダイニングが3階にあり、主寝室や浴室は2階に。酷暑の夏は1階の和室で寝起きしていたと聞いている。
- 年老いてから暮らすための家だから、はじめから家庭用エレベーターを設置していた。
- トイレは各階に。男性の体の構造上、立って用を足すのが自然という理由で、2箇所に小便器を備えている。
- トイレや洗面所、キッチンなどのスペースはドアがかち合わないよう引き戸に。
- 時間に正確な祖父らしく全ての部屋に時計を備えていた。祖父はトイレが長かったから、きっとトイレの中でも時間を気にし、玄関で最後に時間を確認してから出かけていたのだろう。
- 廊下の小窓を含め、全ての窓にカーテンを掛けている。色柄はバラバラ。きっと古いものを再利用して、足りないところだけ新しく掛けたんじゃないかな。
- 設備はケチらず良いものを使っているのに、家具は前の家から持ってきた物がそっくりそのままだった。古びているし、はっきり言えば貧相でこの家には不釣り合いだが、そういうことは全然気にしなかったようだ。
- 食器棚に並べられた食器は景品でもらったものばかり。質素なものだ。
- キッチン周辺ではメタルラックがいくつもあって物置として便利に使われていた。
- 驚いたのは、1階と2階の天井に自分でフックを付け、いい加減なハンガーを引っ掛けてポールを通していたこと。
- 机の天板から向こう側に物が落ちるのがイヤで、ストッパーになる板をDIYで止め付けたりもしていた。
- エアコンのリモコンは「停止」のボタンが黒マジックで囲まれていた。最晩年にはリモコンの文字も見づらかったのだろうか。
終わりに
祖父母の家に滞在し、2人の暮らしぶりや生活上の細やかな工夫を見て、改めて立派な人たちだったと思う。新築したらその家に合わせて家具や調度を買い換えるものとばかり思い込んでいたが、祖父母は形にこだわらず、ある物を利用するといった態度で質素に暮らしていた。
不要品も大量だったが……きっちり整頓して清潔に暮らしていたし、収納スペースにはそれでもまだ空き容量がある。わが身をかえりみれば生活態度に見習うべき点がある。
「◯◯子とはねぇ、50年いっしょに仲良う暮らしたんだわ。幸せだったぁ」
最後に会ったときの祖父の声が耳に残っている。
私が城西病院で生まれたその日から、たくさんの愛情を注いでくれた。もう二度と会えないということが、今になってジワジワと心にしみている。
さびしいよ、おじいちゃん。