なにか新しいこと日記

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ぼーっとした大学生が就活に悩んで、全く関係ないアルバイトを始めた話

これは私小説である。《第11話》 

ひと昔前、私は怠惰な大学生だった。それなりに仲のいい友だちもいたし授業は概ねまじめに受講したが、それ以外の時間、恐ろしく無気力だった。長期休みのたびに自室にこもって寝てばかりいた。そういうときは風呂に入るのも面倒で2日にいっぺんだった。今から考えると、ほとんどうつ状態だったと言える。


4年生になり、仕方なしに就職活動を始めた。50〜60社の説明会に足を運んだが、どうしてもここで働きたいとか、特定の企業に貢献したいという動機が私には湧いてこなかった。2か月ほど活動して、箸にも棒にも引っかからないので少し休むことにした。

そもそもアルバイトをした経験が3年間家庭教師だけ。狭い世界だけに閉じこもって社会を知らないのだ。
気分転換に何か別の仕事をしようと思い立ち、駅で配っている無料の情報誌を見て、デパートの中にあるティーサロンのアルバイトに申し込んだ。

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時給900円。家庭教師は時給が良かったから少しでも時給が高いところを探し、デパートのテナントで働くのもおもしろそうだと思って応募した。

店長は40絡み、古尾谷雅人似の背の高い男性で「ホールも募集してるけど、どう?」と訊いてきた。
「いいえ、ホールは無理です。キッチンもやったことないんですけど……」
「料理はするの?」
「たまにはやります」
「それなら大丈夫、作り方は全部教えるから。いつから来られる?」

本来デパートの社内研修を受けてから働くことになっているのに、人が足りないからすぐ来て欲しいと言われた。
私はキッチンに配属され、白い厨房服、ブカブカのズボンとバンダナを着けて仕事するようになった。通用口をくぐるときに必要な名札は他人のものをしばらく借用した。
 

キッチンの仕事はおもしろかった。
コーヒーは1日分を朝マシンで用意する。紅茶はオーダーが入ったらポットにお茶を2匙入れ、機械で熱湯を注ぐ。アイスティーは氷を細かく砕いて、濃いめに出したお茶を急速に冷やすよう教えられた。アイスロイヤルならアイスティーを作り、氷を追加した上で静かに牛乳を注ぐ。色が美しく2層に分かれたら、最後にゆるく立てた生クリームを落として完成だ。

店長の機嫌がいいときは好きなドリンクを一杯ごちそうしてもらえるのが楽しみだった。私は大抵アイスロイヤルをオーダーした。

アフタヌーンティーのオーダーが入ればサンドイッチを作り、冷凍スコーンを温め、ジャムとクロテッドクリームのセットを用意する。最後に冷蔵庫から出来合いのケーキを出して、それぞれをウェッジウッドの皿にのせた。

人気メニューはローストビーフのサンドイッチと、スモークチキンのサンドイッチ。パンをトースターで焼いて焼き目をつけてから、具材を挟む。ローストビーフには特製の赤いソースをたっぷりつけ、チキンサンドはパンに黄色いチーズソースを塗ってから焼くのがポイントだった。

この他に月替わりのコースメニューがあって、ニース風魚介のサラダや、三色のテリーヌ、鴨のローストなんとかなど……。毎月店長が考えたオリジナルの料理を提供していた。難しいところは店長が作るが、基本的には仕込みから盛り付けまでわれわれバイトスタッフが教えられて作った。

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店長は休みなく出勤していた。デパートの中だから普通の飲食店と比べて時間が短いとは言え、遠くから通っているのに毎日毎日連勤するのはつらかっただろう。私がアルバイトした1年で店長が休んだのはほんの数日だった。

スタッフが口ごたえすると、裏でガツンとゴミ箱を蹴飛ばすような人だった。特に男性スタッフには厳しく、長く続く人は少なかった。次々に古参の人が辞めていくので、あっという間に私がキッチンでは古株の1人となった。私に仕事を教えてくれた先輩は辞める前、お腹をさすりながら「汚い話だけど、食事するたびに食べ物が通るところが順番に痛くなるの……」と話していた。

店長は私のような学生には厳しいことを言わなかったが、フリーターには当たりが強かったらしい。時給にちょっとばかし色をつけてもらったくらいで社員並みの責任を負わされたらたまらないと思うのだが、どうもそんな感じだったみたいだ。

 

ともあれ私は教えられた通りに黙々とサンドイッチを作り、紅茶を出した。失敗したらすぐに謝ったし、叱られたときは首を垂れ反省しているふうを装った。

店長は言った。
「ゆっくりやってまちがえないのは当たり前。早く、正確に仕事をしてほしい」

土日は毎回嵐だった。早く手を動かし、いくつものオーダーを同時進行でさばいていく。コの字型の厨房でてんてこ舞いして、前菜のサラダ、スープ、サンドイッチ、コース料理の前菜、主菜を用意した。

そうして気がついたのは、
「私は案外、手や体を動かして働くのが好きなんだ。自分で自分のこと鈍臭いと思っていたけど、一度覚えた仕事は早く正確にできる。忙しいのも苦じゃないし、大きな声で返事もできる。ミスして叱られても堂々と謝れば平気だし、少しぐらいいやなことあってもお給料をもらえたら全然気にならないな。なにより、働いてお金を稼ぐのって、すごく楽しい!」
ということだった。これは、やってみなければわからない発見だった。長年のセルフイメージが新しく塗り替えられた。

 

1月になって、若年向けハローワークに行き就職相談を利用した。

「卒業後また学校に通って〇〇の分野の勉強をしたいと思うんですが、学費を捻出するために一旦就職したい。事務系の仕事ならなんでもいいです」

この半年で考えた私なりのプランを正直に話して、いくつか紹介してもらった。
ハローワーク主催の面接対策セミナーに通い、リクルートスーツを新調して試験を受けた。そこで初めて、3社から内定をもらった。

バイト先の店長には「就職内定したので3月で辞めます」と申し出た。
店長は「このままフリーターで稼げばいいのに」と言ってくれた。正社員の仕事が決まってるのに無責任なこと言うな!と心で思いつつ、笑って辞退した。

楽しい職場だったし、多くのことを教えられたけど、学生のアルバイトだから良いのだとわかっていた。フルで働いても14万円くらいにしかならないのだ。それ以上貰える正社員の仕事とは、給与の面でも社会保険においても比較にならない。

 

かくして私はOLとなった。

その後しばらくしてわが愛するデパートは大改装が始まり、終わった頃に懐かしきフロアを見に行ったら、私が働いていたティーサロンは消えていた。
あーあ、と笑った。

 

古尾谷雅人似の店長は、元気なら今も系列店のどこかで紅茶をいれているのではないかと思う。
貧乏なOL時代には手が出なかった2,000円のランチも、今なら食べられる。そのうち見つけたら行ってみよう。
もちろん、ドリンクはアイスロイヤルを注文するつもりだ。