こんにちは、ジョヴァンナです。
今更ながら、プロフィール記事を書いてみることにしました。
私、このプロフィール紹介ってやつが大の苦手で。よくよく考えたら、過去の歴史の中に人に話すのが面倒なことがあるからなんだって気がつきました。
だけど、それも自分の歴史の一部だからね。この際、自分が読み返したときにどんよりしない程度になるべく客観的に振り返ってみようと思います。
ご注意: この先【閲覧注意】な写真がございますので、おそれ入りますが心の準備を整えましてから先にお進みください。
目次
自己紹介
ニックネームの由来は長野まゆみの小説『賢治先生』からです。こんな、ワガママで奔放な女の子になってみたかったーという動機で名づけました。
東京都在住の30代。13歳までは引っ越しだらけの少女時代でした。
これまでに1番長く住んだのは千葉県です。ただしほとんどの期間は都内に通勤通学していたため、「故郷」という思いは希薄です。実質「千葉都民」歴が長い。(自慢じゃないですよ。私はできることなら、こどものうちから1か所に定住したかったです。)
一度OLとして働いてから専門資格を取得し、転職しました。21歳から目指してきた今の仕事はとても楽しいです!
ひょんなことから2016年に開業することとなり、現在シェアオフィスを利用してフリーランスで仕事しています。それだけでは収入が足りないので、同業他社でアルバイトもしています。
ブログヒストリー
このブログは2015年10月に開設しました。
過去には、はてなダイアリー→ココログ→GoogleのBlogger→アメーバなど変遷して、やっとはてなブログに落ち着いたところ。
基本的にはライフログとして、好き勝手なことを書き散らすブログです。
1年半運営して140記事ほど書きました。運営方針が定まるまでには迷走した時期もあります。過去記事はこれから徐々に整理するつもり。
PVとか収益を上げることにこだわらず、ちんたら更新してます。
このブログ、なるべくリアルの知り合いにばれないように気をつけていますが、母親にばれてしまったときに、見られて恥ずかしい記事だけはさっさと削除しました。
私の履歴書
少女時代
父親が金融マンで1年半おきにあちこち転勤させられ、散々な目に遭いました。
内気な文学少女だった当時の私にとって、やっと友だちができた頃に転校×4回というのは罰ゲームでしかなかった。
中でも、関東育ちにとって異文化の京都、富山では、コミュニケーションスキルが乏しいもんだから、仲間には入れてもらえないしいじめられるしで、孤独でした……。
でもね、方言は覚えて結構喋ってましたよ。
その地方のアクセントを覚えるまで、3か月はずーっと黙ってヒアリングに徹していると、ある日、口をついて方言が出てくるんです。これぞナチュラル・スピードラーニング!
思い出深い富山弁は「何すんがやちゃー」「ダラかよ〜」です。
完璧にアクセントを耳コピして、喋ってましたね。そういや『こきりこ節』も、未だにちゃんと覚えてます。富山には2年半も住んだので、他の土地より思い出深いです。
当時の富山は、テレビのチャンネル数が少なくてさびしかった。
引っ越しして、千葉のマイホームに帰ってワクワクしながらテレビをつけたら、忘れもしない『新世紀エヴァンゲリオン』最終回のラストシーン。シンジ君が皆に囲まれて拍手をされているところでした。
なんのこっちゃ!と思いました。
『新世紀エヴァンゲリオン 第26話世界の中心でアイを叫んだけもの』より
その後、再放送で1話から観て、最終回に至るや「ええっ、なんのこっちゃ(結局わからん)」と再び驚くわけですが……。
中学2年生になった私は、深刻な中2病を患ってムダに苦悩することとなります。
この記事を書くため『エヴァ』最終回をもう1度観てみましたが、今見ても、シンジ君の苦悩は我がこととしか思えません。
ハタチ過ぎても中2病
さて、千葉に住みついて最初に友だちになったのがクールなオタクの中学生でした。絵が上手な人で、よく剣心、蔵馬、カヲル君を描いてました。
はい、お察し通り、やおいガールだったと思います。当時BL、腐女子という言葉はなかったけど、私もちょっぴりその方面をかじったりしてました。
でもそれより、村上春樹にどはまりして『ノルウェイの森』と『ダンス、ダンス、ダンス』を何十回も読み込んでました。
当時は文学少女で、図書館に毎日通って年間300冊読んでいた黄金時代、マンガも大量に読んでいました。
マンガで当時好きだったのは奥瀬サキの『コックリさんが通る』『低俗霊狩り』など。(奧瀬先生は最近また魔魅さんを描かれているのを見つけました。うれしい!)
高校で出会った友だちがこれまた純粋培養のオタクガールで、この時期には大変お世話になりました。千葉方面には足を向けては寝られません!
彼女が貸してくれた『カウボーイ・ビバップ』『ここはグリーン・ウッド』『トーマの心臓』は、全て私の青春です。生まれる年代をちょっとまちがえたな〜。
転校ばっかで友だちができなかった私に、やっと長くつき合える友だちができたけど、依然としてリアルの人間関係よりはマンガや本に傾倒していくという痛い痛い少女時代でした。
天職に出会うまで
大学でもこの調子でわが道を行ってしまい、いざ4年生になって困ったのが就職活動。コミュ障のぼーっとした女子大生が闇雲にあがいたところで、総合職として採用してくれる会社は皆無でした。
私としても一所懸命活動しているつもりなのですが、どうもピンとこない。
「あなたはこの会社でどんなことを実現したいですか?」「3年先、10年先のビジョンを語ってください」などと畳み掛けられて、答えに窮してしまいエントリーシートが書けませんでした。
交通費を使って60社ほどの会社説明会に参加しましたが、「一生ここで働きたいか?」「10年後のビジョンが浮かぶか?」と聞かれれば、答えはノー!
だんだん気持ちがふさいでしまい、しばらく就職活動を休止しました。気分転換に飲食店でアルバイトを始め趣味の読書も好きなだけして、半年間何も考えず遊んで暮らしました。
そうした中で、田口ランディ氏の著書の1冊から「将来この仕事に就きたい!」と思う仕事を見つけます。やりがいや社会貢献なんかは動機としては二の次。なんかおもしろそう!という直感、それだけで志しました。
両親に相談したら「大学まで行かせてあげたんだから、後は自分でがんばりなさい」
もっともなことだと思い、進学の費用を貯める目的で就活を再開しました。大学卒業間近の1月のことです。船橋のヤングハローワークに通い、就活相談、模擬面接などを利用してサポートしてもらいました。条件だけ見てサクッと一般事務の仕事に応募し、活動期間1か月で無事内定を頂きました。
都内の小さな商社で4年間働きました。学費をある程度貯めて、足りない分は親に借りて進学することにしました。
26歳、人生の転機が来る
ところが、進学先が決まって退職を目前にした1月、3歳下の弟が旅先で事故に遭います。
脳に深刻なダメージを負い、右前頭葉の大半を摘出しました。幸い1か月ほどで意識が戻り身体障害はほとんど残りませんでしたが、知能が大幅に下がってしまい、世間で言うところの「認知症」のような障害を背負って生きていくことになりました。
事故から1か月後ぐらいの写真。(本人に掲載許可もらってます。)
事実は事実としてなんとか受け止めてやって行くしかない。進学、勉強と家族のケアに目まぐるしい日が続きましたが、本当に心から、私がこの出来事を受け入れられているかと訊かれれば、未だ疑問です。
両親はおそらく、一生涯受け入れることはできないかもしれない。
我が子が肉体の一部、精神の一部を奪われ、一生元に戻ることはないということが、どんな地獄であるか? 私にもわかりません。
人はみな、その人なりの事情を抱えて、苦しみと付き合いながら生きていくしかない。
私は26歳で、私なりの地獄を味わいました。
職歴
その後家族をサポートしながら、数年かけて資格を取得しました。専門職としてデビューして2年間は実家に留まり、質素に暮らして資金を貯めました。そして、30過ぎてやっと実家を出ました。
もう戻らないと決め、仕事も辞めてしまって背水の陣で上京し、東京での就職先を探しました。
専門職として転職した先は過酷な職場でしたが、どんなに仕事がきつくても、もう実家には戻りたくないという思いで必死に働きました。
上京から2年後、突然に会社が解散することとなり、私は解雇されると同時に独立開業の道を選びました。
今に至るまで職種を明かしていないのは、いつか、このときの話を書きたいと思っているのも理由の1つです。いろいろとヤバいエピソードがあるので、関係者の目に触れないところで赤裸々に語ってみたい。いずれね…。
ここまでで約3000字。もうすこし、突っ込んで本音を語ってみようか。
神様にお願いしたこと
大嫌いだった気の合わない弟が、死の淵をさまよっていたとき……私は全身全霊で神に祈りました。
どうか、弟の命を助けて欲しい。
そして、彼の人格が変わらないように、家族の思い出が失われないように救ってくださいと。
いくら命が助かっても、すべての記憶を失ったら人が変わってしまうだろうと思いました。海外のICUにいる弟に何もしてやれることはなく、私は、短期間で複数の関係書籍を読み込み、生還した後にどういう障害が起こり得るかを細かく想定していました。
この時期、世界ががらっと変わりました。理屈ではない肉親への愛着、強い愛情が自分の中に眠っていたことに驚かされた。
神様は、信仰を持たない私の願いを聞いてくださいました。
まず、命は助かったし、過去の記憶も連続している。人格はやや退行したり障害による変化がないわけではないが、一応ベースのところは連続しているようである。
神様は、私の26年で最も強く願ったことを全て叶えてくれたのだから、私は、世界にこの借りを返さなくてはいけないと思った。
それで今、21歳の時に志した仕事に就いて、骨身を削って働いています。
何が何でも自分の分の食い扶持は確保して、将来、家族の面倒が見られるよう自立していなければならないのである。
重すぎだろ……
つぶれそうだ……
そう思ったときもあります。まあ、今でも思ってるよ。体調悪いときは落ち込みが激しい。
だけどこの出来事がなかったら、私はもっと傲慢で、仕事が甘い人間になっていただろうと思う。
本物の苦しみを味わったからこそ、肝が据わったし、他者の苦しみに対しても「触らない、そっとしておいて見守る」ことができる。これが職業上も、役に立っている。
資格を取ってまだ5年です。ひよっこの身には法外な信頼を得て、顧客の皆様に支えていただいているのも、このことがあったればこそであり、私の個人的な歴史を「なかったこと」にはできないと思うのです。
そして、このことを書かずしてどうもプロフィールは完結しないのではないかと思い、書いてみました。ここまで長い話におつきあいいただき、ありがとうございました。
大好きなオカルトの話が全く書けなかったんだけど、またにしよう!
なんか共通点がある方とか、共感してくださった方、趣味が同じ方と、ブログやTwitterでゆるくつながれたらいいなと思ってます。
連絡先
Twitter: ジョヴァンナ@はてな(@GiovyGiovannna)
mail: giovannahatenaアットマークgmail.com
感想、メッセージは、お気軽にいただけるとうれしいです。
2018年7月13日更新:アイコン画像を変えました。
2021年2月15日:加筆修正しました。