なにか新しいこと日記

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就活で壁にぶち当たった後、どうやって職業選択をしたか【しょーもない私の進路選択・後編】

前回の記事

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就職活動で壁にぶつかる

思いつきで進学先を選んだ私は、大学ではそれなりに一所懸命勉強した。
が、学んだことがただちに進路に結びつくわけではない。
私は無名の人として平々凡々の人生を送りたいのであって、ジャーナリストとかライターみたいに名前が表に出るような生き方をしたいとは1ミリも思わなかった。

 

ぼーっとしたまま4年生になり、父から「就職活動はどう?」と100回聞かれた。

証券マンだった父は『会社四季報』を示して「これを読んで会社研究するといいよ」と言った。(なんか、これとよく似たシーンが『インベスターZ(4)』にあったよねぇ)

父の真意は……「たんに娘の将来を案じている。娘に訊かれたら四季報の読み方だって教えてやれるし、会社の見方や将来性を予測するのも自分の方が詳しい。会話のとっかかりとして、ただ『どう?』と訊いているだけ」だったんじゃないか。今考えてみれば、きっとそうだ。

一方、私はいい加減な態度で受け流しつつ、内心で「うるさいなあ。私だってどうしていいかわからなくて困ってるのに。余計なプレッシャーをかけてこないでよ!」と怒りをつのらせていた。

 

ここに、親子間のコミュニケーションの断絶がある。
当時の私は「親に相談すれば解決の糸口が見つかるかも」とか「なにか有用なアドバイスが得られるかも」とは思えなかった。
私にとって親というのは、社会規範や偏った意見を押し付けてくるケースが多く、対等な話し合いは期待できない。自分がやりたいと思ったことが親の意見と合わなければやらせてもらえないし、一度始めたことは最後までやり通すものだと思っているから、私が「途中でやめたい」と思ったときでも、頑なに反対され、なかなかやめさせてはもらえない。
例えば、中学で茶道部に入り、合わなくてすぐにやめようとしたら反対されやめるのに苦労したとか、近所の塾が合わなくて、サボっていたら怒られ『塾をやめたい』と泣いて頼んだのにやめさせてもらえず、イヤイヤ通うはめになったとか。その種の経験が積み重なって、親への信頼残高はゼロになっていた。

 

あの頃、会社四季報の類が父の部屋に何冊もあった。あれは私のために父が買ってきたものだったのかもしれない。というのも、父はしょっちゅう四季報を購読していたわけではなかったから。父の気持ちも考えず、冷たく遠ざけてしまったことを思うと、胸が痛む。

だけど、お父さん、普段から信頼関係を築いていなければ、大事なときに娘は親に相談しようなんて思いもしないものなんだよ。

 

あの時代、そこそこ就職は難しかった。
ぼーっとした大学生の私は「あなたの5年後、10年後のビジョンを聞かせてください」と求められ、ビビって答えられなかった。
大企業〜中小企業まで、60社ほどの会社説明会に参加したが「ここで10年後も働きたい」と思える企業は一つもなかった。動機が自分の内側にないのだから当然だ。すっかり方向性を見失い、塞ぎ込んだ。

インベスターZ(4)』第34話で、女子大生の浩子が就職活動で壁にぶつかるシーンがある。(まるで大学時代の自分を見るようだ)

企業研究を4年生になってから始めるようでは出遅れている。浩子の妹のように、高校生のうちからお小遣いで株の売買をやってみるとか、アプリを使ってシミュレーションするぐらいのことをしないと。もしくは複数のアルバイトやインターンの経験を積む。学生のうちに社会に出て、少しでいいから働いてみる経験が必要だ。
勉強だけしていて社会に関心がないから、いざ社会に出ようとしたとき、道に迷うのだ。

22にして学を志す

その後私がどうしたかは、以前ブログに書いた。

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一旦就職活動をやめて、好きなことを思い切りやった。
バイトして小銭を稼ぎ、もらえるのは月5万ほどだったと思うが、そのお金で買えるだけ本を買って読んだ。毎月給料日になると書店に行って、カゴいっぱいに本を買うのが楽しみだった。当時『ダ・ヴィンチ』を購読しており、新刊の文庫、新書、マンガのページをチェックして少しでも興味あるものは手当たり次第に読んでいった。

あの頃、インターネットは常時接続ではなく、私は世界の片隅で立ち止まっていたが、本に向かっているときは幸せだった。

 

そうして私は一冊の本と出会う。作家の田口ランディ、整体師の寺門琢巳が対談した『こころのひみつ』だ。

この本を読んで、心って、からだって、なんておもしろいんだろう!と感動した。この分野に傾倒するようになり、次第に進路が定まった。
私、人の健康に関わる仕事がしたい。だっておもしろそうだから。卒業したら医療系の専門学校に行こう!

 

結局のところ、道が開けたのは、私が心から興味を持って「おもしろそう。これをやってみたい!」と行動したときだった。
興味がないことなんて長くは続かない。好奇心の赴くままにただ進んでいったら、その先に自然と道は開けていった。

自分にとって無理がない働き方

考えてみたら、私は意に沿わないことを強制されたり体を拘束されるのが大きらいで、がまんができない。
同調圧力に屈せず、わが道を行くタイプの人間だ。サラリーマンなんて長く勤まるわけがない。

現在フリーランスで自分の好きな仕事をしていて、拘束時間が短いわりに、収入は雇われて働いていたときよりいい。もちろん、波はあるが、やったらやっただけ自分のポケットに入ってくるから、やりがいがある。そういう働き方が性に合っている。(いきなりこういう働き方ができるようになったわけではなく、何年もかけて試行錯誤してきた結果だ)

 

大学時代の友人はみな、私より早く内定をもらったが、私が専門学校進学の学費を貯めるために働いている4年の間に、全員が私より早く1社目の会社を辞め、次の会社に移った。
だから、内定を取るのが早いか遅いかなんて些細なことだ。全員が1社目でピッタリ自分に合った仕事を見つけられるわけではなく、2〜3年で辞めて次に行く人も多い。
友人のうち、最初に入った会社でがんばっているのは、地元の県警に就職した人だけ。彼女は出世してバリバリやっているらしい。(同期100人のうち、女性は数名しかいないと言っていた。80年代みたい……)

私の人生、はたして大学に行った意味はあっただろうか。

現在の職務に大卒資格は必須ではなく、おまけみたいなもんだ。
しかし、大学でメディアリテラシーを学んだこと、その後就職して会社員経験を積んだことは、接客する上で大いに役に立っている。進むべき道が決まれば、人生で得たものすべてが糧になる。そういうものだろう。

散々文句を書き連ねてきたが、教育を与えてくれた両親には感謝しており、現在の関係はまあまあいい。ときどきは実家に顔を出し、親の後半の人生に少しは参加するよう努めている。

記事を書いた理由

この記事は、2019年、はてなブロガーのイクオさん(id:iqo720)の記事を読んでから、長らく温めていた。

www.iqo720.tokyo

今再びイクオさんの記事を読んだら、若いうちから立派に考えて行動されていて、自分が恥ずかしくなった。

だけど、しょーもない自分を認めて「このとき、もっとこうすればよかった」とか、自分に足りなかった点を考察して書き留めておけば、だれかの役に立つかもしれない。

あるいは年を取ったら、過去を美化して、自分に都合のいいように歴史修正をしないとも限らない。ありのままのしょーもない姿、ルサンチマンをこうして書き留めておくのは私にとって意味がある。だから書いた。