ランディさんの新刊を読みました。
小説「逆さに吊るされた男」人生が書かせてくれた。人生が用意している課題にイエスという。ただ、イエスという。それをもう一度教えてくれた作品だった。これからまた書評が出る。みなが事実を追いたがるが、虚実の見分けはつかないでしょう、ていねいにブレンドした。不思議な味を楽しんでね。
— 田口ランディ(Randy Taguch) (@randieta) 2017年12月21日
ツイートを見て、気になっていた作品です。
小説『逆さに吊るされた男』
帯には、実体験をもとに描かれた「私小説」とあります。
作家の羽鳥よう子が、地下鉄サリン事件の実行犯で死刑囚のYとの10年越しの交流で何を思い、どんなやり取りをしてきたか……。
あらすじを知って、これはすごい話だと思った。心して読まなければ……と。
ところで、90年代以降に生まれた読者は当時を知らないでしょうから、ちょっと振り返ってみます。
テロ発覚の年、1995年
当時、私は富山県に住む中学生でした。
3月20日は風邪を引いて学校を休み、朝病院の待合室でぼーっと順番を待っていました。にわかに待合のテレビが騒がしくなり、倒れる人々や東京の地下鉄の駅の周りが人であふれる様子などが映し出されました。テレビの前に人だかりができ、未曾有の大事件が起こっていることを私も子どもながらに感じて衝撃を受けました。なんだこれは!と思った。
「テロ」という言葉を知ったのは、このときだったかもしれない。
首謀者である教祖・麻原彰晃(本名:松本智津夫)は行方をくらまし、テレビは連日オウム真理教関連の報道で賑わいました。スポークスマンであった教団幹部・上祐史浩はワイドショーに出演し、詭弁を弄しては「ああ言えば上祐」と揶揄され、一躍時の人となりました。同じく幹部であった村井秀夫は1か月後に刺殺され、これも大騒ぎになりました。5月16日、麻原は上九一色村にあった教団施設第六サティアンの隠し部屋に潜んでいるところを捜査員に発見、逮捕されました。
事実は小説より奇なり。
坂本弁護士一家殺害事件を始め、次々に明るみに出た一連のテロ事件の報道に日本中が震えました。
一方「しょしょしょしょしょしょしょ彰晃~」と教祖を称えたオウムソング。「修行するぞ、修行するぞ」の洗脳テープの文言。あるいは「第七サティアン」「ホーリーネーム」「ポア」といったオウム独自の宗教用語はキャッチーで、中学生の心をつかんで離しませんでした。
クラスのお調子者が替え歌にして歌ったり、教祖や幹部をネタにしてよく笑いを取っていたのを覚えています。不謹慎と思いつつ、私も笑っていた一人でした。事件があった場所から遠く離れたロケーションだったからこそ、平気でネタにできたんだと思う。もっと身近であった事件だったら、私たちの受け止め方も違ったように思います。
ともあれ、当時中学生だった私にとって一連の事件は大きな衝撃を与えつつも、浅い理解に留まり「オウムって、何だったんだろう……」という思いだけが残りました。
今回そうして、この小説を手にとったわけです。
『逆さに吊るされた男』あらすじ
主人公羽鳥よう子は、小説を書くために死刑囚との交流を始めたわけではありません。ある映画監督(おそらくオウムのドキュメンタリー映画を撮って話題となったあの人だろうと思う)の仲介で、たまたま交流することになっただけです。Y の刑が確定してからは、面会が許された数少ないメンバーの1人となっています。
Yと交流する10年の間に羽鳥が会いに行った事件の関係者、あるいは宗教関係者との対話を中心として物語は進んでいきます。
彼女なりの視点でオウム真理教の教義を理解し、教団の異常性に疑問を感じていたと言うYがなぜ凶行に加担してしまったのか。なぜ逃げることさえできなかったのか、問い続けます。
私の感想
途中で、これは危ういな……と感じたところがあります。
羽鳥が元信者の女性と富士山麓を訪れ、教団施設の跡地を探索する場面。あるいはゴジラと麻原を結びつけてみたり、麻原の誕生日がどうとか、サリン事件の日付がどうとかといった数字遊びをしている場面。
些細な事柄にもシンクロニシティーを発見して、余分な意味合いを与え、はしゃぐ姿は妄想的であるし、まるで狂信者のようです。
Yはそんな羽鳥を見て、言います。
「羽鳥さん、これまで私が教団について語ったことは私の個人的な意見に過ぎません。もしなにかあなたに誤解を与えてしまったら申し訳ありません。どうかすべて忘れてください。(略)」
「オウム真理教は、抑圧された日本人の無意識から生まれてきたの。怪獣ゴジラみたいに。あなたはそこに巻き込まれたのよ」
「説としては面白いですが、それでなにかが解決するとは思えません。被害者の方の心情を逆なでするだけです」
『逆さに吊るされた男』p138
このように、Yは冷静で理知的な人です。羽鳥の言葉遊びを相手にせず、逆にたしなめるような態度を取っている。被害者に申し訳ないといった感情もところどころで見せています。
教団が宣伝に使った「神秘体験」にも興味はないし、人に悪影響を与えるだけだから話したくないと言います。
「私はインド放浪中にそういうことはある程度は経験済みでした。神秘体験のような一時的なものに、興味はありませんでした。私は生活のなかで精神的な修行をするために出家したのです。教団の修行が本来の心の修行からズレていくことに失望していました」
『逆さに吊るされた男』p178
そこまでの冷静さを持っていながら、なぜ異常な犯行に加担してしまったのか。
Yは「怖かったから」と話しています。
結局その一言に尽きるんだろうと思いました。狂った集団の中にいて幹部として祭り上げられ「逃げたら家族に害を及ぼす」などと脅かされたら、おかしいと思っていても反抗する気力を失ってしまうかもしれない。あるいは、自分も正気を失って一緒に狂ってしまわないと言い切れるだろうか?
なんの解釈も加えないまま、ただ起きたことを知る・人の言葉を受け取るのって大事だと思う。
羽鳥よう子は、余計な解釈をし過ぎる。
結末では自らを省みて「遅れてきた信者」と述懐しています。そうだ、自分が巻き込まれちゃいけないんだと……読んでいて私もハッとしました。
妄想とファンタジーの違い
私はオカルトとかスピリチュアルが好きです。しかし、他人の妄想に巻き込まれるのはご免だし、自分の妄想にも他人を巻き込むべきではないと思う。
作中に妄想とファンタジーは基本的に違うもの、という言葉があります。
麻原は自分のファンタジーに積極的に信者を巻き込んでいった。これは精神疾患の患者にはできないことだと作中の精神科医が指摘しています。
ファンタジーというのはあくまでフィクションとして楽しむもので、現実の世界に持ち込んじゃいけないと思う。他人のファンタジーに巻き込まれるのは危ない。人生のコントロールを失ってしまいます。
妄想も個人の心の裡に留め、絵空事として弁えているうちは害はないが、ファンタジーとして筋道を立て、他人に話して聞かせたりするようになると危ないんじゃないか。ファンタジーを現実に侵食させるような行為は厳に慎むべきです。社会的に高い地位にいるとか、他人に与える影響が大きい職業ならば尚更。
この作品自体、事実を基に小説として書かれたものでファンタジーの範疇である。ファンタジーはファンタジーとして受け止め、全てを真に受けるのはよしておきましょう。
田口ランディのファンタジーに巻き込まれてはいけない。