先日あいまいみーちゃんと共に、アニメの『パプリカ』を観て感想を書きました。
8割方悪夢で構成されたような美しいアニメだった。
私は原作を読んだことがあったので記事を書いた後で「こんな話だったかな?」と疑問に思って、もう一度原作を読んでみました。
やはり大幅にエロスの部分が削られていた。これは、全年齢向け作品にするために致し方なかったのかもしれない。
でも、パプリカ=エロスを具現化した存在とすれば、もう話自体変わってきている感は否めません。
そこで、今回はアニメとの相違点に触れつつネタバレ感想を紹介していきたいと思います。
ロマンチックなシーン
アニメでは研究所で時田が「あっちゃん」と呼びかけたのに対し敦子が「その呼び方やめて」と穏やかに制止するのみ。二人の関係性について同僚以上のものがあるにしても、それ以上の描写はないので何とも判断つきません。公にせず内緒で付き合っている恋人同士なのか、それとももう既に終わった関係なのか……。
一方原作ではワンシーンだけですが、詳しく書いたところがありました。
お互いに気持ちが通じ合っているのに、なかなか口には出さない二人。時田が遠回しに愛情表現するのに対し、敦子は100kgを超える巨体を後ろから抱擁しながら「はっきり言いなさい」と迫ります。
私が高校生の頃に読んで最もドキドキしたシーンです。
今読んでも素敵だなと思うけれど、多少なりとも恋愛経験を経た今だからこそわかることがあります。愛情のこもった目線や態度から特別な好意を察したとしても、やっぱり「そういうこと」って男性の方から言って欲しいって思ってしまうものなんだよね……。
しかしですよ。この期に及んで「言えないんだよな」と煮え切らない時田に対して「お互いに言わなくても全部わかってるわけだけど、もし言うとしたら、わたしから言わなくちゃいけないのかしら」……と言ってハッキリ思いを告げる敦子が、堂々として素敵でした。
アニメのクールな敦子とは全然違う。体ごとぶつかっていくセクシーで切ないシーンです。
パプリカとはどんな存在か?
アニメでは暗にパプリカ=敦子の変身した姿であると仄めかされているのみ。
そもそも顔立ちからして別人として設定されています。年齢もパプリカは20歳に満たない少女の姿、敦子は成熟した大人の女性(原作では29歳の設定)です。
原作では、パプリカは実験段階の装置を使って違法な治療行為を行うため、敦子が念入りに化粧をして変装した姿と説明されていました。
噂では「夢探偵をやると自称する女の子がいて、男性の夢の中に入ってきて何かこの性行為みたいなことをして、精神病を治療する」とも……。
実際に敦子は自らの魅力を利用してクライアントを惹き付けていることを自覚しており、夢の中に入り込んで性的な行為も行っています。それも複数の男性に対して。
かなり淫りがましいし、精神科の治療行為として考えたときに患者との恋愛関係、性交渉がセラピストの倫理を逸脱しているのは明らかです。
読者としても受け入れがたいところですが、前述の時田への愛の告白のシーンにおいて、夢の中では倫理を飛び越えても構わないと考える「夢の中の正気」という言葉が説明されていて、さすがだな〜と思いました。そのように説明されると、読者としてはタブー感が薄れて安心して読めます。
(だけど、夢の中であればフリーセックスもOKという考えは私はないな。たまーに妖しい夢を見ることあるけど、目覚めてからの背徳感はかなり気まずいです。)
パプリカと私
読みながら、敦子と私はある部分で共通するところがあるなと思いました。
立場上冷静でなくてはならない一方で、自ら広告塔として立ち、社交的にアピールする能力も欠かせない。職業上「仮面」をつけて人前に立っているという意識は常にあります。
だからってわけじゃないけど、私も「ジョヴァンナ」としてのもう一つの顔を持って、ヴァーチャルで交流して遊んでいるわけです。
年齢も忘れて自由奔放にふるまうっていう意味では、パプリカと共通すると思う。すぐ人を好きになるのもパプリカと一緒。(だからって性的にどうのは一切ないですが。)
秘密結社ゼツェシオン
もう一つ、これは……と思った部分があります。敵役の研究所の副理事長乾と部下の小山内の同性愛関係。
アニメの方だとここも詳しい説明がなく、なんのこっちゃというところでした。乾と小山内とは、科学者の倫理を問うわりには時田の開発した技術を悪用したりして自己矛盾しています。
原作では、彼らはカルト宗教に嵌まり込んで自意識が肥大した妄想狂として描かれています。乾は美青年の小山内を愛し、ブサイクな時田と女の敦子を退け功績を取り上げたいという歪んだ古代ギリシア的プラトニック主義者。従う小山内は誰彼構わず肉体で籠絡するニンフォマニアックな青年として……対立構造はわりに単純でした。
複雑なのはむしろ敦子の心理です。敵の小山内すらも最終的に愛し始めてしまい結末はカオスでした。もう、全然意味がわからない。
乾らが傾倒する邪教は、ローマ・カトリック教会の異端中の異端であり秘密結社『ゼツェシオン』と名付けられています。この名を見て、私はえっと思いました。「当時ミュンヘンで起っていた芸術運動とまぎらわしい名」と説明されているように、この名前は現在もウィーンにある美術館に残っており、20代の頃私はここを訪れたことがあります。グスタフ・クリムトの『ベートーヴェン・フリーズ』を見るために行きました。オーストリアでも長らく所在不明、発見後は修復のため未公開となっていたもので、おそらく日本に来ることはないだろうと思われる大作壁画です。
こんなところで懐かしい名前と邂逅したのは、おもしろかった。
終わりに
誤解を与えぬよう再度強調しておきますが、筒井作品のエロスは官能小説とは違います。
局部の露骨な描写なんかはほとんどありません。なぜこんなに婉曲に、あるいは抽象的に書いているのに色っぽいんだろうって思う。
筒井作品を読むと、生きていることそのものがエロスなんだと感じます。
私にとって、思春期にこの作品と出会っていたのは大きかったかもしれない。パプリカに生き方が影響されてないとも限りません……。
年月を経てから読むと、当時とはまた視点が変わる新鮮さもありおもしろかったです。
長編を1冊読み切るには3〜5時間というところでしょうか。なかなか学生の頃のように一気に読み通す時間が取れず、細切れで読むことになってしまう。でも、たまには小説に没頭するのもいいものですね。しばらく遠ざかっていたけれど、月1冊くらいは何かしら読みたいなあ、なんて思いました。