なにか新しいこと日記

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日野原重明先生の全生涯を知る『僕は頑固な子どもだった』

こんにちは、ジョヴァンナです。私の夏休みも終わりに近づき……なんとかここで上半期の会計入力を終わらせたいのですが、すっかり嫌気がさしてしまったので、ちょっと気分転換。

大好きなおしょぶ〜(id:masaru-masaru-3889)さんのブログ『介護の道も一歩から』より、こちらの記事に触発されて手に取った本をご紹介したいと思います。

日野原重明さんが最後に残した5冊の本 - 介護の道も一歩から

 

『僕は頑固な子どもだった』2016年10月、株式会社ハルメク発行

 

 

2017年7月18日に105歳でこの世を去った医学博士、日野原重明先生の生きた足跡をたどる本です。

タイトルからして子どもの頃の話がメインかな、と思い手に取りましたが、実際には各年代ごとの年表を挟みながら、2016年刊行までのほとんど全生涯を振り返っています。

 

若き日の日野原先生

日野原先生が生まれたのが1911年(明治44年)。

お父様というのがまた偉大な方でした。山口県萩市の士族の家に生まれながら14歳にして洗礼を受け、生涯をキリスト教の伝道に捧げられた信念の人です。このお父様から「大きなヴィジョンを持って勇気ある行動をしなさい」と教えを受け、日野原先生は医学の道に進みます。

京都帝国大学の医学部卒業後、YMCAを通じて東京の聖路加国際病院から誘いを受け日野原先生は上京を決意します。この時の決め手としては、東京に少なからず憧れていたこと、聖路加ではカンファレンス(症例検討会)を定期的に行なっており、当時として民間病院の新しい在り方を示していたこと、研究だけではなく臨床の場に身を置きたいと思ったことなどが記されています。

日野原先生が19歳の頃に満州事変ですから、折しも世界大戦の真っ只中でした。聖路加に赴任した翌年、31歳で同じ教会の会員だった女性と結婚されます。1945年3月10日の東京大空襲では家族を自宅に残し、世田谷から築地まで夜通し歩いて向かわれました。病院はひどい火傷や傷を負った人で溢れかえり、物資が不足する中で必死の救護を続け、無力感に苛まれながらも死亡診断書を書き続けたそうです。

終戦後、病院の建物がGHQに接収されると、東京都民政局の紹介により使われていなかった都立整形外科病院の建物を借りて11月1日に診療を再開。小さな病院はまた病人で溢れましたが、戦地に召集されていた医師や看護師が復員すると、かつて行なっていた訪問看護を再開。戦後の焼け野原で生活環境が悪化する中、街頭での公衆衛生活動にも尽力されたそうです。当時の聖路加院長・橋本寛敏先生もまた志清き人でした。

 

オスラー博士(1849〜1919年)との出会い

この頃、アメリカ陸軍病院として接収された聖路加の建物の中に医学図書館ができたことを聞きつけ、日野原先生は陸軍病院の院長と交渉して自由に出入りできるパスを得ます。そして昼は臨床、夜は医学図書館に通って最新のアメリカの医学雑誌やテキストを読み勉強されたそうです。これらの論文の中に度々登場するウィリアム・オスラーという医師に興味を持ち、その足跡を辿るにつれ、オスラー博士の生き方と医学への態度に非常なインスピレーションを得たと言います。(p119)

聖路加の古い図書館にも、病院創設者であるトイスラー院長が所蔵していたオスラー博士の伝記『The Life of Sir William Osler』がありました。また陸軍病院の院長パウワーズ軍医大佐からオスラーの講演集『平静の心』を譲ってもらい、夢中になって読みふけったそうです。

 

話は前後しますが、日野原先生は20代の頃、京大の医局時代に初めて受け持った患者の死に際して感じたことをこのように記しています。

その命を助けられなかったことよりむしろ、死を受容した患者を受け止めきれなかったことへの悔いが残ったのだ。どうしてあのとき、「安心して成仏しなさい」と少女に言ってあげられなかったのか。「お母さんには、あなたの気持ちを十分に伝えてあげますよ」と、なぜ言えなかったのか。励ましの言葉ではなく、ただ黙って手を握っていてあげればよかった……と。p96

医師としての生涯には、最善を尽くしたとしても命を救えなかった人が大勢いたはずです。そうした時に、どのようにして患者に寄り添うことができるのか。ここに記されたエピソードからも日野原先生の考えを知ることができます。また、他にオスラー博士の生涯を紹介した本も何点か出版されているようなので、後日読んでみたいと思います。

 

医学するこころ――オスラー博士の生涯 (岩波現代文庫)

医学するこころ――オスラー博士の生涯 (岩波現代文庫)

 

 

平静の心―オスラー博士講演集

平静の心―オスラー博士講演集

 

 

著書のタイトルの由来

39歳、日野原先生は奨学金を受けられるギリギリの年齢でアメリカ留学の切符を手にします。1年間アトランタにあるエモリー大学医学部内科主任のポール・ビーソン教授の下につき、アメリカ式のカンファレンスや回診に多くのことを学んだそうです。帰国してからは日本の医学教育の立て直しに情熱を注ぎます。

その後の業績は多数の著作を通じて、よく知られているでしょう。

 

この本のタイトルに「頑固な子どもだった」とあるのは子どもの頃、週末ごとに通っていた教会の日曜学校で日野原先生のお母様が先生から言われた言葉に由来しています。

「しいちゃんはよい方向に育てばいいけれど、悪い方向に向かえば、大変な子になりますよ」p16 

果たして、信仰深く強い信念を持ったご両親の導きに従い、日野原先生がよき道に進まれたのはまちがいありません。その生涯を通じていくつかの重要な出会いがあり、目指していった方向性もこの本にまとめられています。

 

私の感想

私はこれまで日野原先生の著書を手に取ったことはなく、朝日新聞の土曜版に長年連載されていたコラムを時々読んでいただけでした。今回ほぼ全生涯の記録に触れて、先生の医師としての功績を知ることができました。また「全人医療」という最近の大きな流れに結びついている、その考え方の一部にも触れ、今後の医療の展開も気になるところでありますし、源流とも言えるオスラーの考え方もぜひ知りたいと思いました。

 

我々はやがて全員が、例外なく死を迎えます。

おそらく私は、自分が死ぬより先に親や近しい肉親を見送ることになるでしょう。その時にできればより良い医療、看護、そして介護が受けられるように。また近しい人が「死」を迎えるに際して、どのように寄り添い見送ることができるのか、考え続けています。

 

30代でそういうことを考えるのは、決して早くはありません。

人生の後半では誰もが経験することになる。そして、いざ、医療や介護の現場で「今日明日」にも決断を迫られるのです。その現場で考え始めるのでは間に合わないと思う。私は物事を飲み込み、自分なりの考えを形成するまでに長く時間がかかるタイプです。であるからこそ、今のうちに、身近にありそうなことから一つ一つ考えていきたいと思います。

「死」を理解し受容することには、おそらく理性では越えられない壁があるでしょう。

日野原先生が医師として生涯考えてきたその足跡をたどりながら、私も一般人として、大切な人をこれから見送る家族として、考えていきたいと思います。